箱根・浅間山~鷹巣山
小涌谷駅12:00→宮ノ下分岐13:00→浅間山13:05(ランチ休憩)→小涌谷分岐13:40→鷹巣山13:55→湯坂路入口14:10
年初に箱根湯本温泉を取材した折、白山の行者による開湯伝承があることを知った。
箱根の地は、古来、箱根権現を崇める山岳信仰のメッカだったらしい。その箱根権現が坐す霊山と信じられたのが、中央火口丘の神山だという。
だが、松本前会長からのご指摘を受けて役場に問い合わせたところ、火山ガスの影響で、中央火口丘一帯の登山道は今も立ち入り禁止とのこと。二十年来の知人である修験者が小涌谷に隠棲していることを思い出し、挨拶がてら、小涌谷経由で浅間山~鷹巣山を歩いてみることにした。
その修験者と知り合ったのは、著書の制作をお手伝いしたのがきっかけだ。以来、すっかりご無沙汰していたが、年賀状のやりとりだけは続いていた。都内の寺を引き払い、今は箱根にいると聞いていたので、ハイキングがてら旧交を温めることにしたのである。
修験者の家を辞し、小涌園の千条の滝から山道へと入った。岩や木の根が多い山道を30分ほど登り、浅間山に到着。山頂は広々とした明るい広場で、ピクニックや昼寝を楽しむには格好の場所だった。残念ながら富士山は見えなかったが、木立の向こうに駒ヶ岳を望むことができた。
昼食をとった後、鷹巣山に向けて出発。ここからは、かつて箱根権現の参詣道でもあった湯坂路を歩く。山道をふちどる椿並木はちょうど花の盛りで、山上庭園といった風情。鷹巣山の山頂には「大日如来」と刻まれた石標があった。
明るく開けた道を下り、湯坂路入口に下山。
さて、ここからが本番である。
生態系保護のため立ち入り禁止になっている二子山の西麓を、国道1号線沿いに歩き、まずは芦之湯温泉へと向かった。
芦之湯温泉が史料に登場するのは鎌倉中期。古くは信仰の湯治場として栄え、江戸時代には箱根七湯に数えられた名湯である。だが、その由緒とは裏腹に、今はすっかり寂れた印象であった。
ここには、かつての熊野信仰の名残をとどめる、「東光庵熊野権現旧跡」が現存している。江戸後期には、賀茂真淵や本居宣長などの国学者が集まるサロンとなり、文人墨客が風流を競ったらしい。
そこから南に下ると、精進池の畔に出た。
精進池の畔には、石仏や宝篋印塔が多い。
ここで一番楽しみにしていたのは、「八百比丘尼の墓」。これを見るために、このルートを選んだと言っても過言ではない。人魚の肉を食べて不老不死となり、800歳まで生きたという尼。数奇な運命をたどった八百比丘尼の伝承が、なぜこの地に伝わっているのか。それを思うと、いたく興味をそそられるのである。
湖畔には「二十五菩薩」と呼ばれる摩崖仏があり、「応長地蔵」、別名「火焚地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像もあった。説明版によれば、この地域では、応長地蔵の前で送り火を焚き、精進池のほとりで花や線香をあげる「浜降り」が行われていたらしい。ふと、青森・恐山の宇曽利湖で見た光景が甦った。
精進池の向こうには、駒ヶ岳がなだらかな山容を見せている。古代の日本人は、死者の魂は山に還ると信じていたらしい。
死者の魂はあの駒ヶ岳に還る、と人々は信じたのだろうか。それとも、その奥にそびえる霊峰・神山こそが死者の安住の地だったのだろうか。
国道を挟んで山側には、「六道地蔵」(国重文)と呼ばれる高さ3mの摩崖仏もある。
お堂の中を恐る恐るのぞき込み、暗がりの中で石仏に目を凝らすと、浮かび上がってきたのは意外なほどの慈顔であった。
故人の供養のためだろうか、六道地蔵のお堂の前には石が積まれ、さながら賽の河原である。その北側にあって、曽我兄弟の墓と伝えられる五輪塔も、実際には地蔵信仰の遺物だという。どうも、この精進池一帯は、地蔵信仰にゆかりの深い場所らしい。
後で調べたところによると、大涌谷の噴気地帯を持つ箱根の山中には「地獄」があるといわれ、精進池畔は「六道の辻」と信じられていたそうだ。
だとすれば、地獄に堕ちた人を救うという地蔵菩薩の信仰に人々がすがったのも、理解できるような気がする。
六道地蔵の辺りから再び山道に入り、お玉が池の畔に出た。江戸時代、お玉という少女が故郷恋しさのあまり、江戸の奉公先から故郷に帰ろうとして関所破りをした。そして、この池の畔で処刑されたことから、「お玉が池」と名付けられたとのこと。
風が池の水面をなぶり、ひたひたと波が打ち寄せる。
生と死のあわいにある、無音の世界。今、自分は「山中他界」にいるのだ、と思った。
そこからしばらく山道を行き、箱根旧街道の石畳を歩いて、芦ノ湖に出た。