・1978年創設
・東京都山岳連盟所属
・例会毎月第1水曜日

二上山

2019/03/17(日)
報告者
小堀
山域
金剛葛城山系
ジャンル
ハイキング
天候
雨、時々曇り、雹
行程

12:00二上神社口~12:30二上神社~13:30雄岳~14:00雌岳~15:30竹内峠

報告

二上山のことを知ったのは、折口信夫の小説『死者の書』を読んだのがきっかけだ。
この物語は、二上山に葬られた大津皇子が、墓の中で目覚めるシーンから始まる。双耳峰の彼方に沈む壮麗な夕日に、古代大和の人々は西方浄土をみた。大津皇子が眠り、阿弥陀如来が来迎するという山に、私もいつか登ってみたい--。
そんなかねてからの念願を果たすべく、大阪出張のついでに、二上山~大和葛城山を歩いてみようと思い立ったのである。

日曜の朝、大阪市内から電車を乗り継ぎ、奈良県の二上神社口駅に向かった。
当初は二上山~大和葛城山を縦走する予定だったが、あいにく朝から本降りの雨。昼頃、雨が小降りになってきたので、二上山にだけは登ることにした。
大和葛城山への縦走はあきらめ、竹内峠で下山して、竹内街道経由で太子町に出よう――そう考えたのは、地図を見ていて、太子町が古墳の集積地になっていることに気づいたためだ。この地は飛鳥時代の交通の要衝であり、“王陵の谷”と呼ばれているらしい。どのみち縦走ができないなら、そちらを見に行こうと思ったのだ。

二上神社口から登り始め、まずは山麓の社殿に参拝。山頂にある葛城二上神社の参詣道を兼ねた登山道は、しっかりと整備されていたが、ところどころに光沢のある岩盤が露出している。これが有名なサヌカイトだろうか。サヌカイトとは石器の材料で、叩くと澄んだ音がすることから、打楽器にも使われたらしい。

しばらく登って行くと、雄岳の山頂直下に、大津皇子のものといわれる墓があった。
大津皇子は天武天皇の息子で、謀反の罪を着せられて非業の死を遂げた人物である。容姿と才能に恵まれ、人望も厚く、将来を嘱望された皇子だったらしい。実子である草壁皇子に皇位を継がせたい持統女帝の陰謀で、無実の罪を着せられたというのが通説だそうだが、今も悲劇の皇子に心を寄せ、二上山に登る人は少なくないという。大津皇子の冥福を祈り、墓所を後にした。

そこから雄岳山頂までは、目と鼻の先である。山頂には葛城二上神社があり、その左には「二上白玉稲荷大神」、右には「葛城修験二十八宿」の第二十六番経塚があった。「葛城修験二十八宿」は、若き役行者が法華経を納めたといわれる経塚である。梢のドームに覆われた行場には、無数の碑伝(山伏のお札)が納められ、この山域が、今も大峯と並ぶ修験道の聖地であることを示していた。

雄岳山頂付近で30分ほど油を売った後、雌岳に向かって歩き始めると、雨がみぞれ混じりの雹に変わった。滑りやすい岩肌に足をとられないよう慎重に登山道を下り、再び登り返して雌岳山頂に着いた。
山頂には日時計があり、馬酔木の花が盛りであった。途中、古代の石窟寺院である「岩屋」に寄り道し、竹内峠に着いた頃には午後3時を回っていた。

 竹内峠からは、竹内街道を西に進み、太子町へと向かう。
竹内街道は、推古朝の時代に作られた“日本最古の官道”で、日本遺産にも認定されている。幹線道路沿いにしばらく歩き、竹内街道資料館のほうに抜けると、この辺りからは宿場町の風情を残した古道となる。
推古天皇の御代、難波(大阪)と飛鳥(奈良)を結ぶ大道が敷かれ、遣隋使が持ち帰った大陸文化は、この道を通って飛鳥の都へと伝えられた。太子町には聖徳太子の御廟をはじめ、推古天皇や用明天皇、小野妹子や蘇我馬子(伝)といった歴史上の有名人の陵墓が密集している。
ここまで来たら、叡福寺にあるという聖徳太子の御廟にだけは詣でておきたい。「5時には寺が閉門する」と言われ、もう刻限を過ぎてはいたが、幸い、山門はまだ閉じられてはいなかった。

叡福寺は聖徳太子の墓守のために建てられたような寺で、境内には二重塔もある立派な寺院である。その正面に鎮まる聖徳太子の墓は、三重の屋根を重ねた美しい社殿の奥にあった。
来てよかった、と、心の底から思った。
そこにいるだけで浄められるような、不思議な感覚。空海、日蓮、親鸞、一遍、良忍など、名だたる名僧がこの地に参籠したというのも、この圧倒的な聖地感覚と無縁とは思えなかった。
後ろ髪を引かれるようにして、御廟を後にした。西方浄土の町を、鮮やかな夕日が赤く染めあげてゆく。上の太子駅から近鉄南大阪線に乗り、帰路についた。

大津皇子の墓
雄岳山頂の葛城二上神社
葛城二十八宿の経塚
雌岳山頂からの眺め
竹内街道
聖徳太子御廟
叡福寺の二重塔
太子町の落日