雲仙普賢岳
8:10 池ノ原園地
9:00 仁田峠
9:40 紅葉茶屋
10:10 普賢岳山頂
10:50 紅葉茶屋
11:30 仁田峠
雲仙普賢岳に登ってみようと思ったのは、雲仙温泉での仕事が入ったのがきっかけだ。20年前に島原半島を旅して以来、雲仙は、一度は訪れたい場所のひとつだった。
雲仙岳の中腹には熱泉が湧き出し、「雲仙地獄」と呼ばれる異観を呈している。雲仙は、江戸時代にはキリシタン迫害の舞台となり、明治以降は、上海租界の欧米人が集まる温泉リゾートとして栄えた。その歴史もさることながら、1991年に起こった雲仙普賢岳の噴火は、今も生々しく記憶に焼き付いている。
火砕流で43人の犠牲者を出し、日本列島を震撼させたあの山は、今どうなっているのか。それを、この目で確かめたいと思い、延泊して普賢岳に登ることにしたのである。
長崎空港から諫早駅まで行き、島原鉄道を完乗して、終点の島原外港で下りた。わざわざ迂回ルートをとったのは、雲仙岳災害記念館『がまだすドーム』を見学するためだ。
この辺り一帯は、火砕流で大きな被害に遭った地域である。館内では、噴火の様子を取材していた報道陣が、火砕流に巻き込まれた直後の「定点」の様子が再現され、カメラマンが最期の瞬間まで回していたカメラの映像なども放映されていた。
館内から外へ出ると、正面に、富士山のような美しい山容を持つ山が見えた。91年5月20日、普賢岳の地獄跡火口に忽然と現れ、大火砕流を発生させた溶岩ドーム、「平成新山」である。
噴火から27年が経過した今、雲仙の普賢岳~国見岳~妙見岳を結ぶルートは、人気のハイキングコースとなっている。梅雨時にはミヤマキリシマ、秋には紅葉、冬には霧氷を見に、多くの人が訪れるという。
雲仙温泉からタクシーで池ノ原園地まで行き、そこから登山口がある仁田峠まで歩いた。思わずよろめくほどの強風で、ロープウェイも運行休止。あいにく天気も下降気味で、妙見岳~国見岳からの周回をあきらめ、普賢岳をピストンすることにした。
仁田峠の普賢神社で無事登山を祈り、整備された登山道を40分ほど登ると、「紅葉茶屋」に着いた。茶屋とは名ばかりで何もない分岐点だが、ここからは岩場の連続となり、道は荒々しさを増す。普賢岳も元は溶岩ドームだったのだ、と思いながら、1人分の幅しかない狭い隙間をよじのぼっていく。
ほどなくして、視界は白一色に埋め尽くされた。霧氷が木々を包み、氷の花を咲かせていたのだった。
霧氷というのは、北風が強く、気温が氷点下で、降雪がないという3つの条件がそろわないと見ることができないらしい。真っ白な梢のトンネルの中をどこまでも登っていくと、満開の霧氷に抱かれた小さな祠があった。これが普賢神社の奥宮で、その佇まいは、思わず見惚れるほど美しかった。
数百年ごとに凄まじい怒りを解き放つ山の神が、今は氷の女神のように端然と鎮まっている。この山が、最盛期には数千人を数えたともいわれる、雲仙の修験者を魅了した理由がわかるような気がした。
普賢神社から鎖場がある道を登りつめ、山頂に着いた。残念ながら、雲にすっぽりと包まれて眺望はなく、平成新山の山肌も、島原湾も望むことはできなかった。
北風がびゅうびゅう吹き付け、霧氷が粉雪となって舞う。山頂で写真を撮り、そそくさと下山に取り掛かったのは、やはり、この山に対する畏れがあったからだろう。結局、登り始めから下山まで、ひとりの登山者にも会わなかった。孤独な山行ではあったが、考えてみれば、これほど贅沢な山行もなかった。
登山口まで来て、後ろを振り返ると、山頂には晴れ間がさしていた。仁田峠は、平成新山の展望所となっている。普賢岳の隣に、今は長崎県の最高峰となった平成新山が、なだらかな裾野を引いていた。
山肌には、火砕流が駆け下りた跡が、くっきりと刻まれている。
その先に広がるのは、島原の町と有明海。冷たい風に身を縮めながら、なかなかその場を立ち去ることができなかった。